第三回臺灣美術展覽會即將開展,故本會於上個月(九月)十八日正午,在總督府二樓食堂舉辦了招待各新聞、雜誌代表者的午餐會。用餐之後,杉本(良)副會長針對臺展的舉辦,致詞如下:

臺展的規畫,今年也跟去年差不多,在此就其要點向各位報告。首先是審查委員長將煩請臺灣大學的幣原(坦)總長(校長)擔任,審查委員方面則由從內地(日本)招聘的審查委員,與去年一樣,即小林萬吾、松林桂月的兩氏,以及本島(臺灣)在住的審查委員鄉原藤一郎(古統)、木下靜涯、石川欽一郎、鹽月善吉(桃甫)的四氏共同擔任。出品的種類限東洋畫、西洋畫兩種,出品者以本島在住者為主,件數為一人三件以内。無鑑查出品只限審查委員以及上回展覽獲得特選的作家,其他的出品全部都必須經過鑑查入選才得以陳列(展示)。會場使用樺山小學校講堂,會期則因考慮到提供會場的學校的狀況以及內地審查員招聘的狀況,比上回展覽晚約半個月,訂於十一月十六日至二十五日的十天。

作品的搬入受理為十一月七日及八日,縮短為兩天,這是因為前兩回的展覽雖然設定了五天的搬入期間,但最初的兩、三天都不見什麼作品搬入,大多數的出品都在最後的兩天,尤其是都擠在最後的一天,有鑑於此,估計兩天便已足夠,所以今年才有了如此的變更。

  其次是幣原總長作為審查委員長,陳述意見如下:

臺灣美術展覽會的成績,第一回與第二回相比,後者成績有顯著的進步,這是大家都認可的事實,尤其是地方色彩的表現非常顯著,令人欣喜。荷蘭的著名畫家牟利羅(Bartolomé Esteban Perez Murillo)氏(譯註1)曾言「學習大自然」是最必要的事,亦即,畫家必須致力於發揮自然美,然而,一旦受制於學習大自然的這個原則,則除了荷蘭的繪畫,別無其他表現的餘地。被視為印象畫派的模倣的馬內(Édouard Manet)氏(譯註2),最初畫裸體畫時,慘遭世人謾罵毀謗(譯註3)。我國(日本)也有黑田清輝畫伯曾在明治中期畫了裸體美人(譯註4),震驚世人,但因為是名門出身,才免於遭受像馬內那樣的毀謗。又,英國人透納(Joseph Mallord William Turner)氏主張在畫面上表現人生的意義,例如他的泰晤士河上的廢艦圖(譯註5),的確宏大壯觀至極。其次是米勒(Jean-François Millet)的〈晩鐘〉之圖,自問世以來,帶給世界各地的畫壇無比的衝擊,西洋畫至此可窺見其進步之顯著。然而,有如此進步的西洋畫,也因歐洲大戰(第一次世界大戰)而全毀,要回復到過去的榮景,據說最少需要半個世紀之久。此時世界注目的焦點是東洋畫,橋本雅邦、狩野芳崖的畫因而成為了話題,總之,像日本畫的這種繪畫,畢竟是西洋畫所望塵不及的,因為日本畫是將崇高的筆致巧妙表現到極致的藝術,具有所謂的氣韻生動的特徴。回過頭來看臺展去年的作品狀況,地方色彩(local color)的表現顯著,這是一件非常可喜之事。我個人認為臺展已經不需要我們再為之煩憂。這個美術展覽會若能帶給臺灣美麗的生活、有文化滋潤的生活,則總督府主辦的意義也就得到徹底的實現了。

  其次是依杉本副會長的指名,有如下的發言:

木下靜涯氏

第一回展因為是首次舉辦,所以成果欠佳,但第二回展便顯示出長足的進步。東洋畫方面比西洋畫的出品較少,令人感到遺憾,但相信今年會有更為優秀的作品出現。祈望有了各界新聞、雜誌關係者的協助與支援,出品件數能夠直線上升。

鄉原藤一郎氏

第一回展有一點繪畫陳列會之感,亦即,沒有研究基礎的一筆畫作品非常多,這點在第二回展則有了很大的改變,每件作品都有累積研究的痕跡。所以今年也非常的期待。

大澤(貞吉)臺灣日日新報副主筆

我個人非常感謝文教當局者對臺展所做的努力,也想藉這個機會談一下對臺展的兩、三個希望:

1.從內地招聘的審查委員,今年的人選似乎也跟去年相同。我認為不同的審查員,我們才有機會受到尖銳有力的批評與刺激,就此點來說,同一個人的話,就不太能夠期待什麼。

2.比較第一回與第二回,都沒有大家期待的力作,尤其是無鑑查出品有十分無趣的畫作,無鑑查出品這邊也希望可以考慮篩選掉不良之作。

3.日本畫(東洋畫)的出品很少,這是個問題。赤島社(譯註6)會員等等都相繼傾向西洋畫,研究日本畫的人極少,僅新竹的陳進而已。從日本畫的立場來思考的話,支那(中國)民族是東洋畫的發源地,因此,希望當局者能夠將前述的傾向列入考慮,好好思索一下日本畫的未來才好。

林呈祿(譯註7)氏(臺灣民報記者)

我是繪畫的門外漢,所以不敢妄加批評,只有一個希望,就是希望臺展能增加彫刻的部門。就因為出品者稀少,便將之捨棄,這樣並不好,即使出品者是少數,也必然能帶給一般的觀覽者一些刺激。此外,朝鮮的展覽會(朝鮮美術展覽會)還另有書(書法)的部門,臺展也加看看,如何?

宮川次郎氏

審查委員的陣容方面,本人與臺日的大澤氏的意見相同,請當局務必審慎思考。此外,會場方面也希望能考慮更好的場所。

野口(敏治)幹事

審查委員問題、經費問題、教育會館問題方面,已經有詳細的説明。

若槻(道隆)幹事

在畫作賞析方面,正在考慮舉辦一些活動,由於從內地(日本)招聘畫壇大師所費不貲,故近期預定在總督府一樓食堂舉辦美術家的演講會,有機會聆聽大師們使用將其畫作的繪葉書(美術明信片)拍攝放大的幻燈片來進行畫作的解説。

小川(堅二)南瀛新報記者

我個人對於繪畫所知不多,但比起將眾多粗製濫造的畫集聚一室,更希望的是能夠將天才型的傑出畫作予以展覽。

最後由杉本(良)文教局長致詞之後,於下午兩點半散會。當天的出席者為

  大澤(臺灣日日新報)、德田(臺灣時報)、坂本(臺南新報)、唐澤(新高新報)、田上(臺灣Puck)、永岡(實業時代)、渡邊(大阪朝日新聞)、田中(臺灣通信)、林呈祿(臺灣民報)、謝汝銓(昭和新報)、宮川(臺灣實業界)、奥山(大阪每日新聞)、小川(南瀛新報)的各記者諸君及杉本臺展副會長、野口與若槻兩名幹事、幣原審查委員長、鄉原與木下兩名審查員以及加村、石原、黑住、安山等諸氏。


記者招待会

 第三回臺灣美術展覧会も愈々近づきましたので、本会は先月十八日正午、総督府二階食堂に各新聞、雑誌代表者を招待し午餐会を催ふしました、食後杉本副会長は臺展開催に付き大要左の如き挨拶をされました

 展覧会の計画は本年も昨年と大差ないので御座いますが今其要領を申上ますならば、審査委員長には弊原大学総長を煩すことに致しました、内地より招聘の審査委員は昨年同様小林万吾、松林桂月の両氏と、本島在住の審査委員郷原藤一郎、木下静涯、石川欽一郎、塩月善吉の四氏と協力して審査をお願ふ事になつて居ります、出品の種類は東洋画、西洋画の二種に限り出品者は本島在住者を主とする事とし、点数は一人三点以内と云ふ事になつて居ります、無鑑査出品は審査委員と、前回特選に入つたものも出品丈けでありまして、其他は総て鑑査を経て陳列する事に致しました、会場は樺山小学校講堂を使用する事となつて居ります、会期は会場たる学校の都合と内地審査員招聘の都合等を考慮致しまして、前回よりも約半ケ月延期し十一月十六日から二十五日迄十日間と致しました

 搬入受付は十一月七日と八日との二日間に短縮致しました、これは前二回の如く五日間搬入期間を設けますと、初めの二、三日は余りに搬入を見ないで出品の大多数は後の二日間殊に最終日に殺到すると云ふ事実に鑑みましてこれ位でよからうと云ふ見込でかく更めました次第であります

 次に弊原総長は審査委員長として大要左の如き意見を述べられました

 臺灣美術展覧会の成績は第一回より第二回と成績が著しく進歩したことは何人も認める処で、特に地方色が著しく現れて居たのは嬉しく感じました、彼のオランダの名画家ムリリヨ氏は「自然を学ぶ」ことが最も必要だと云つて居ます、即ち画家は自然美を発揮することに努めなければならぬ、然し自然を学ぶと云ふ原則に提はれて居ると和蘭の画以外には出ないことになります。印象画派の模倣となつてゐるマネー氏が初めて裸体画を書いた時には世人から非常な罵詈讒謗を受けました。我国に於ても黒田清輝画伯が明治の中年に裸体美人を書いて、世人を驚かしたことがありますが、名門の出だけにマネー程の讒謗は受けなかつたやうです、又イギリス人ターナー氏は人生の意義を画面に現すと云ふ事を主としました彼のテームス河に於ける廃艦図の如き実に宏大にして壮観を極めたものであります、次いでミレーの「晩鐘」の図が一度出て以来世界の画界に非常な衝動を与へ西洋画は著しき進歩を見るに至りました。然し如斯進歩を見た西洋画も欧洲大戦に依り全く破壊されて之が回復には尠くとも半世紀を要するであらうと云はれて居ます、此時世界の注目する所となつたのは東洋画でありますとて橋本雅邦狩野芳崖の絵に就ての話あり兎に角日本画の如きは到底西洋画の及ばない崇高なる筆致を巧みに極めたもので所謂気韻生動と云ふ特徴があります、翻て臺展の昨年の有様を見るにローカルカラーがよく出て居たことは非常に喜ぶべき事だと思ひます。私は臺展も最早心配はないと思ひます、臺灣の麗はしい生活、潤ひある生活を此の美術展覧会が与へることになれば総督府主催の意義も徹底することかと思ひます

 次に杉本副会長の指名に依り大要次の如き意見の発表がありました

木下静涯氏

 第一回は初めてゞ振はなかつたが第二回は大なる進歩を示しました、東洋画の方は西洋画に比較して出品が少いのは遺憾に思ひますが、今年は一層よいものが出ると信じて居ります、願くば各新聞、雑誌関係者の御援助に依て出品点数の多からんことを祈るものであります

郷原藤一郎氏

 第一回は聊か絵画の陳列会の感がありました即ち何等研究しない一筆ものが多かつたが第二回は其点に於て各自が研究を積み非常に面目を改めた観がありました、本年も大いに期待して居る次第であります

大沢臺日副主筆

 私は文教当局者の臺展に対する努力を感謝するものでありますが此の機会に臺展に対する二、三の希望を述べて見度いと思ひます

 1内地より招聘する審査委員は本年も昨年と同じ人のやうであるが、私は変つた審査員に依りグングン突込んだ批評と刺戟を受け度いと思ひます此点に於て同一の人では余り多くを期待出来ませぬ

 2第一回と第二回と比較して期待した程の力作を認めませんでした、無鑑査出品には殊に面白くないのがありました、無鑑査出品もよくないものは考慮してほしいと思ひます

 3日本画の出品が尠いのは問題だと思ひます、赤島者同人など皆相次で西洋画に走り日本画を研究するものは極めて尠く僅に新竹の陳氏進位のものであります。日本画の立場から考へ支那民族は東洋画の本場でありますから之等の傾向を当局者に於て考慮され日本画の将来を考へて貰ひ度いと思ひます

林呈録氏(臺灣民報記者)

 私は絵画に就ては門外漢でありますから敢て批評は出来ませんが只一つの希望があります、それは臺展に彫刻を加へて貰ひ度いことであります、出品者が尠いからとて之を捨てることはよくないと思ひます、出品者は少数でも一般の観覧者に必ず刺戟を与へると思ひます、尚朝鮮の展覧会では書を加へて居ますが臺展にも加へては如何

宮川次郎氏

 審査委員の顔振に就ては臺日の大沢氏と同意見で是非考へて頂き度いと思ひます。尚会場に就てもよりよき所を考へて頂くことを希望します

野口幹事

 審査委員問題、経費問題、教育会館問題につき詳細なる説明がありました

若槻幹事

 絵の見方に対する運動を考究し度いと思ひますが、其の方面の大家を内地から招聘することは経費もかゝるので其画の絵葉書の拡大幻燈に依り美術家の説明を聴くことを近く督府一階食堂で行ふつもりであります

小川南瀛新報記者

 私は絵に就ては多くを知りませんが粗製濫造的の絵を沢山集めるよりも、天才的の傑出した絵を展覧して貰ひ度いと希望します

最後に杉本文教局長より挨拶ありて午後二時半散会しました、因に当日の出席者は

 大沢臺日、徳田臺灣、坂本臺南、唐沢新高、田上パツク、永岡実業時代、渡辺大朝、田中臺灣通信、林呈録(民報)謝汝銓(昭和)宮川臺灣実業界、奥山大毎、小川南瀛の各記者諸君及び、杉本臺展副会長、野口、若槻、の両幹事、弊原審査委員長、郷原、木下の審査員、加村、石原、黒住、安山の諸氏でありました

—原載《臺灣教育》,第327號,頁88-90,1929-10-01

(辨識、翻譯/李淑珠)

註釋

譯註1. 牟利羅(1618-1682)是西班牙畫家,並非荷蘭畫家。

譯註2. 馬內(1832-1883)一般被視為印象派的先驅,並非其模倣。

譯註3.  指〈草地上的午餐(The Picnic)〉(1962-63)與〈奧林匹亞(Olympia)〉(1963)。

譯註4. 指〈朝妝〉(1893),第二次大戰時燒失。

譯註5. 指的應是〈被拖去解體的戰艦魯莽號(The Fighting Temeraire, tugged to her last Berth to be broken up)〉(1838)。

譯註6. 原文「赤島者」的「者」,是「社」的誤植。

譯註7. 原文「林呈録」的「録」,是「祿」的誤植。